亡くなるということ

by 岩淵夕希物智 (@butchi_y)
2023/12/18

本記事はキミコエ アドベントカレンダーの18日目の記事です。

訃報2つ

この一年間は、あまり聞きたくないビッグニュースがありました。二件も。

2022年12月18日に鈴木陽斗実さんが亡くなり (享年26歳)、

2023年5月31日に石川学さんが亡くなりました (享年54歳)。

お知らせ|オフィスPAC

石川学氏がご逝去されました | 日本脚本家連盟

鈴木陽斗実さんのニュースについてはあまり驚かなかったというか、以前から病床に伏していることは耳にしていたので、病気が治ることは叶わなかったか、と残念に思いました。

ニュースメディアでも取り上げられていて、キミコエの声優と知らない層からも、若くして亡くなられたことを嘆く声を多数目にしました。

しかし、ファン仲間でも意外と皆落ち着いていたように感じているので、ファン共々思い思いに偲んでいたものかと思います。

(ファン仲間で大きな騒ぎにならなかったのはイベントやオフ会等が自粛気味な時期であったことも一つの要因かもしれません。)

石川学さんは以前からオフ会のゲストとしてお世話になっており、2023年8月27日(日)に行われたオフ会を以て一つの節目を刻みました。

「亡くなる」のコトダマ

ダイレクトでぶしつけな言い方では「死ぬ」。

マイルドで無難な言い方では「亡くなる」。

他に「逝去」「他界」「永眠」などなど。

故人をいたわる言葉も、「ご冥福をお祈りします」「ご愁傷様です」「お悔やみ申し上げます」等さまざま。

皇族に至っては、亡くなること(崩御)を「お隠れになる」という婉曲表現で言うこともあります。

こうやって婉曲的に表現するのは、死ぬというイベントが紛れもなく「大きな事」であるからマイルドに表現しないとコトダマとして大きすぎるのでしょう。

あるいは少し違う考え方では、ある意味で現実逃避に近い側面もあるのかもしれません。

「亡くなる」のトラウマ

私は幼稚園入園から小学校卒業の間にかけて、父方の祖父と祖母(さらには曾祖母と伯父も)と立て続けにお葬式を経験しています。

大好きだったおじいちゃん、おばあちゃんに大きくなった姿を見せられなかったのは残念ではありますが、物心がつくかつかないかの頃に「死」というイベントに触れていたことが有難いとも思っています。

だからなのかもしれませんが、小学生高学年の頃だったか、「死んだらどうなるか」を考え続けて眠りにつけず、母に泣きついたこともありました。

死んだらどうなるか、ずっとずっと考え続けた結果は、

「無くなる」でしかないということです。

おそらくは仏教的な境地に至ったわけです。

「お母さんの声をもう聞けない」

紫音がなぎさに言い放った

「お母さんの声をもう聞くことはできないんです」

に対して、なぎさが咎めた

「そんなこと言うと、ホントにそうなっちゃうんだよ」

というコトダマ理論。

朱音さんはまだ亡くなっていない。救いがあるからこそ「死んだ」的なコトダマは決して口にしてはならないと。

でも、実際に亡くなってしまったからには、それを受け入れるしかありません。

ただ、実際に看取ったわけでもなく、ニュースでしか聞いていない以上、「ワンチャン、ドッキリでは?」的な希望(?)を持ってしまって「亡くなった」と言い切りたくない気持ちも少しだけあります。

そこは死を受け入れるかどうかとは別に、死後の世界 (現実としては無いもの) に若干の余白を設けていることにも近いと思っています。

推しの死

NOW ON AIRの中でも最推しが誰とかはあるものの、鈴木陽斗実さんももちろん推しです。

一般的に「推しの死」はアニメ(架空のキャラ)の作中での死を指すことが多いので、私のキミコエの推しである雫、あるいは朱音さんが作中で亡くなってしまったら悲しいよね、といったことなのですが、鈴木陽斗実さんは「実在の」人物です。

現実を見ろ、という真っ当な言い分をちゃんと受けるなら、

キャラの死については「どうせフィクションなんだからペン次第でそうなっただけだよね」だし、

実在人物の死については「一度亡くなったら二度と会えないんだよ」となります。

この違いはいったい何でしょうか。

例えば、キミコエ・オーディション絡みのTVアニメ『啄木鳥探偵處』では、史実上当然のことながら石川啄木氏は故人で、最初から「主人公が死ぬ」のネタバレを喰らいます。

しかし、作品の中では石川啄木はまさに生きていて、彼の行動にいろいろな感情を抱くわけです。

作品の中に「死」に関するイベントが登場するとしても、ある意味「仮想現実的な」(バーチャルな) 現れ方をします。

つまり、創作というものは基本的に、タイムライン的に別のもの、あるいは並行世界で起きていることを取り扱うため、どうあがいても「現実」になり得ないのです。

死ぬことは良いことか。良くないに決まっています。

死ぬことは取り返しのつかないことです。

死後の世界に期待を抱いたとしても、自ら死に向かっていくことはあってはなりません。

ちなみにさらに言えば、生き別れた人が幽霊みたいなかたちで現実に出てくる創作はいい感じの結末になるファンタジーものが多いですが、死者を蘇生する創作は悪魔契約っぽくなってあまりいい結末のものを見たことがありません(偏見かもしれませんが)ので、やっぱり死ぬことは取り返しのつかないことなのでしょう。

死んでしまっても生きている

死んでも生きているという私なりの救いは、「(肉体的に)死んでも(捉え方次第では)生きている」という概念です。

永遠の命が得られない代わりに子孫を残す、そうでなければ言葉や物語、あるいは音楽 (作品) を残す。

石川学さんと鈴木陽斗実さんは、キミコエという偉大な作品を残してくれました。

石川学さんの言葉の端々に、鈴木陽斗実さんの声の隅々にタマシイがが宿っています。

キミコエを改めて見るたびに、作品に込められた命が何度もよみがえってきます。

生きている人々の中で再生されることが命。それこそがコトダマです。

なので、極めてシンプルに「キミコエを観よう」ということです。

鈴木陽斗実さんを偲ぶ

キミコエの他に、鈴木陽斗実さんは、ご自身で作曲活動を続けており、ご逝去の数日前にアップされた作曲集が残っています。

特に鈴木陽斗実さんは乙葉と同じくして音楽に対してとても強い思い入れがあるので、音楽の中に人一倍タマシイが宿っているはずです。

石川学さんを偲ぶ

石川学さんはアニメ脚本のほかに実写作品にも携わっておりましたが、メディア露出が多い方ではないのでキミコエ以降の活動は目にする機会がなかったかもしれません。

数少ない石川さんのリアルな言葉に触れるには、コトダマ部で取材したこちらのインタビュー記事がとてもおすすめです。

【コトダマ部インタビュー】キミコエ脚本 石川学さん 〜声を“とどける”物語になるまで〜